患者図鑑131 西部さん家の家庭事情2
前回からの続き。
いろいろな問題が渦巻く中、西部さんの長男(仮に徹くんとする)は家に嫌気がさしていたようだ。中学の頃から友人や親せきの家で時間を過ごす事が多く、家にいる事を極力避けていた。西部さんの義母や夫は、中学生になったら少しは店の助けをして欲しかったようなのだが、徹くんは休みもろくろく無く、客がくれば深夜や早朝でも対応しなくてはならない家業を嫌っていた。西部さんの義祖父、つまり義理の父(故人)の父が始めた仕事で義祖父⇒義父⇒西部さんの夫と継いで来たのだ。その流れで行けば、徹くんが次代になるのだが、本人はそんな気はさらさら無く、寧ろ家族から、家業から逃げ出したくてたまらなかったそうなのだ。
徹くんは高校を卒業後、自分で就職を決めた。そして勤め先がどこかも、どこに住むかも一切告げず「俺、もう西部の家とは縁を切るから」と言って出て行ったそうなのだ。
必要な持ち物はまとめて、他は全部捨ててくれていい、と告げたという。それっきり全く音信不通。どこにいるのか、何をしているのか皆目見当がつかない。
西部さんが言う「息子が行方不明」とはそう言う事だった。徹くんも、例えば学校時代の友人とは連絡を取っているかもしれないから、そちらを辿ればどうしているか分かるかもしれない。しかし仮に消息がつかめた所で、徹くんはもう西部家を捨てる決意をし、帰ってくるはずもない。
「だから徹が結婚しようが病気しようが、私達には分からないのよ。孫が出来たとしても会うこともない」
嫁姑の確執、家業の繁忙さ、西部さんの病気… それは相互にからみあい、作用しあって西部家の日常は不穏なものとなっていた。
徹くんも自分を守るために家を出たのだろうけれど、血を分けた子が自分の意思で一生親に会わない、と宣言して縁を切る… なんとも言えない気がした。
(文中は全て仮名・仮称です)
患者図鑑130 西部さん家の家庭事情1
退院後について書いて来たがちょっと中断。
昨日、B病院(精神科単科病院)に受診に行ったら偶然入院時の仲間、西部さんに会った。体調を含め近況報告をしあったが、西部さんが深刻な顔をして「息子が行方不明になっちゃった」と言う。暗い表情ではあったが、どこか諦観も感じられた。
息子さんを含む、西部さんの家の状況は入院中に聞いていた。彼女の家は義母、夫、息子の4人家族。自営で店をやっている。義母はなかなか厳しい人で、夫はあまり妻を庇う事はなかったようだ。西部さんは結婚前から落ち込みを感じたりすることはあったかれど、医師に診て貰うほどではなかったという。
結婚後、義母との軋轢、慣れない自営業(家族のみでやっていて、ほとんど休みがないという)等に苦闘するうち、自ら受診を希望するほど心を病んでしまったという。入退院を繰り返していると言っていたから、あまり病状ははかばかしくないのだろう。
息子を授かったが、子育て中も寝込んだり入院したりして、義母が育児を肩代わりしたという。しかし、「子育ても出来ないの!」と面罵され、店が忙しい時にはたたき起こされ接客をするように指示されたそうだ。
息子は中学くらいから家のごたごたに嫌気がさしていたようだ。義母と母の争い。無関心を決め込む父。調子を崩して入退院を繰り返す母。プライベートな時間がもてない家業。
そう言えば、うちの子供が小学校の頃だったろうか、うつで寝てばかりいて家がぐちゃぐちゃ、洗濯物は溜まりご飯は出来あいという惨状の時「寝てばかりいるお母さんは大嫌いだ」と言われた事がある。その時の事を思うと、西部さんの息子さんがお母さんに批判的なのは他人事に思えなかった。
(文中は全て仮名・仮称です)
退院後の生活2 クレジットカードの限度額
私は相当舞い上がっていたのだろう。駅の階段で足を踏みはずし、左足を酷く捻挫した。松葉杖をつかないと歩けない程だった。結果的にこの怪我は寧ろ自分に取っては吉だったのだが。
ちょうど怪我をして外に出かける事が出来なくなった頃、夫が厳しい顔をして口を開いた。
「ちょっと、クレジットカードの請求が来たんだけれど幾ら使ったか分かってる?」
もともと買い物にいくつもりではなく、出かけたついでに覗いた店でショッピングをすることが度々あった。現金を十分に用意していないので、クレジットカードで払う。
そんなことを繰り返していた。
「限度額までいってるよ」
私は今までもクレジットで払うことはあったが、限度額まで行く事はなかった。10万も行かないくらいだった。確かに買い物をしている自覚はあったが限度額まで行っているとは思わなかった。現金で購入したものもあるので、合計すればかなりの額になっていたのだ。
「何買ったの?」
買ったのは私の身の回りのものだ。服、アクセサリー、化粧品、置物… 元々が
貧乏性なので、一つ何十万するものは手が出ない。しかし、多くの品をちょこちょこと買っているうちに、いつの間にかかなりの額になっていた。
「これとこれと… あれとそれ。でも、この置物は名人が作った○○県の特産品なの。
この化粧品は××という成分が入っていて○○の効果が高くって…」
私の中ではどの品も、気に入って、買う根拠があって購入したものだった。それを一つ一つ夫に説明したのだが、夫はあきれ顔だった。
退院後の生活1 活動的な毎日
もし、これが手術後であったら傷が痛んだり、体力が落ちていたりしてそろそろと生活を始める事になるのだろうが、幸い手術をした訳でも化学療法をした訳ではない。
入院前の酷い落ち込み、鬱がなくなりどこでも行ける体力がある状態で、私は入院中に出来なかった色々な事を始めた。
習い事の教室に申し込んだ。買い物に出かけた。イベントに参加する。外食をする。
堰を切ったように活動的に動き出した。もう予定で手帳が真っ黒に埋まる勢いだった。
体も動く、気持ちも前向き。毎日が楽しかった。
買い物に行けば、これは!という物が目に付く。お買い得だ。センスがいい。掘り出し物だ。あれもこれも。
習い事も、午前中に一つ、午後にもう一つの習い事に通った。昼食は食べログで探してランチを取る。
その時の気分は「充実している」の一言だった。習い事はすぐに始められる手軽なものだったが、もっと本格的に勉強をして資格を取ろうと思い始めていた。かなりの難関の資格だ。片手間でなく、びっしりと数年スクールに通い勉強をしなくてはならない。
合格率も高くない。
しかし、その時私は根拠のない自信に満ちていた。難しい資格だろうが、自分なら絶対受かる。そしてその資格を使って仕事につきバリバリ働こう。きっと活躍できるはずだ。スクールの出願の時期は過ぎていたが、来年はきっと願書を出そう。学費は安くはないが、仕事を始めればあっと言う間に回収できるだろう。夢は膨らむばかりだった。
退院だー-っ ー自由の身ー
違う話題を入れたので、前の記事から少し間があいてしまったがともかくも私は退院にこぎつけたのであった。
入院する時は息も絶え絶えで、自分がこの先どうなるか全く分からない状態だった。身を動かすことも辛かった。死にたい気持ちもあった。
そういう状況から、規則正しい生活、休養、服薬、カウンセリング、作業療法のお蔭もあり、4か月近い入院期間を経てやっと自宅に帰り、何とか生活出来るめどがついた。
病院から家に帰る足取りはとても軽かった。久しぶりの我が家の鍵を開ける。やはり居心地がいい。落ち着く。
病院は色々決まりや規則があった。集団生活であるし、また規則正しい生活が治療の一環でもあるのだから仕方がないが、制約から解き離れた解放感はとても心地よい物だった。消灯時間を過ぎても大丈夫。好きなテレビを好きなだけ見られる。食事は自分が食べたい物を食べたい時間に。こんな当たり前の事が、嬉しくて楽しくて仕方がなかった。同室の人はもういないので、家の中で好きにふるまえる。
ただ、あまり生活リズムを崩し過ぎるとメンタルに良くない事は分かっていたので
自由度もほどほどにした。あまりの夜更かしや朝寝坊、昼夜逆転にはならないよう心掛けた。
このように、退院して万々歳だったのだが、その後に大きな落とし穴があった。しかも自分が落とし穴にはまっているのに気づいたのは、随分経ってからであったのだ。
親ガチャ 医者ガチャ3
前回からの続き。
親ガチャ、教師ガチャが悲劇なのはガチャを引く子供が絶対的に弱い立場であり、異を唱えたり、「チェンジ」を要望する事が難しい(親はそもそもチェンジが出来ないのだが)事だと思う。
医者ガチャの場合、患者が大人ならば病院を変えればいいではないか、と思うかもしれない。しかし精神的に肉体的に弱った状態で受診する訳であるから、そこで不適切な対応を取る医師に当たったからと言って、新しい病院を探すエネルギーを絞り出すのはとても大変な事なのだ。ますますエネルギーを吸い取られ、消耗し、病気が悪化したり最悪命にかかわりかねない。
私が、精神科医が複数いいる病院を受診して、五藤医師という「あたり」を引いたのは
本当にたまたまであり幸運な事である。
前に記事に書いたが入院仲間のキムちゃんが自殺を思いとどまったのは熊本医師のアツい説得があったからだ。
元気なころから転ばぬ先の杖で病院にあたりをつけておくか、医師の友人知人を作っておいてその人たちに紹介して貰うのが間違いがないと思う。
今はネットでも評価が見れたり(額面通りに取れるかは少し疑問があるが)医師も自分の経歴や資格をHPにアップしている事が多いので、選びやすくはなってきていると思う。大きな病院だと、手術の実績も公開している。
病気に限らずだが、初期の対応は大事。同じ病気でも医者により病気の経過、患者の心身は雲泥の差が出る。
親ガチャ、教師ガチャ、医者ガチャ… 宝くじよりこちらの「あたり」の方がずっと人生には大きな影響が出る。しかしどんなに努力したとしても、「運任せ」の部分は否定できない。くれぐれもはずれガチャは引きたくないものである。
今週のお題「試験の思い出」
今週のお題「試験の思い出」
折しも試験シーズン。ぴったりのお題。
私が大学を受験する頃、非常にテンパった状態だった。もともと勉強していたなかったところにどんどん入試が近づいてきて、時間切れになりそうだった。
そこで限られた時間を有効に使い勉強すればいいものを、何故か占いの雑誌を買って
入試日(複数受験したので複数ある)のラッキーアイテム・ラッキーカラーをチェックして着たり持って行く事にこだわっていた。
一番最後、本命の大学の入試日のラッキーカラー・アイテムはグリーンのストライプ、
チェーンのベルト、ビーズのついたヘアピン。これらを全てそろえないと足りない学力が底上げされない気がして、全装備で試験に臨んだ。
結果、幸いにも合格出来た。
入学後、友達になった子から「私安井さんと入試の部屋一緒だったんだよ。随分目立った格好していたね」と笑われた。
他の受験生は制服や、シンプルな地味な格好をしていたからきてれつな格好の私は悪い意味で目立ったらしい。顔から火が出るほど恥ずかしい。
まぁお蔭で(?)受かったからいいか。
もう一つは息子の受験のエピソード。大学受験を控え、正月に家族で某有名神社にお参りした。皆でおみくじを引いた。息子のおみくじを見せて貰った。大吉… ではなかった。凶でもなかったから、小吉か末吉だったと思う。すぐ「学業」のところを見た。
さー-っと血が引く思いがした。「叶わず。諦めるべし」と言った事が書いてあったのだ。
「あそこに結ぶ場所あるよ、あ、あっちに屋台が」おみくじから気をそらし、雰囲気を変えるべくつとめた。おみくじの話題をその後する事はなかったが、私の中では時々その内容が頭をもたげ、不安になったり気を揉んだりしていた。道険しけれども通ず とか、困難なりとも努力すれば ならともかく…
合格発表のその日まで気になって仕方なかったが、息子は無事合格できた。
もう話してもいいかと思い、「初詣のおみくじ見た?気にならなかった?」と聞いた。
「見たよ。でも俺自信あったからさ、『へっ』て思っただけ」
気にしていたのは母だけだったようだ。