患者図鑑79 退院します2
翌朝、「昨夜随分看護師さんバタバタしてたよね」と話題に上がった。
梁井さんが寝不足顔で「うちの部屋なの」と話し始めた。
夜中に喜多さんが起き上がり、荷物をまとめはじめた。そしてナースコールを
押し、看護師を呼んで「もう退院の時間ですよね?支度できましたし、私帰りますから」と病室を出て行こうとしたという。
看護師は、「喜多さん、退院はまだ先ですよ。今夜中ですし」と言っても喜多さんは
なかなか聞き入れない。何度か押し問答の上、朝また話しましょうと寝床に送り出すも
数時間後にまた全く同じ事を繰り返したのだという。
「だから私も寝れなくて」と梁井さんはぼやいていた。
朝食に喜多さんは姿を見せたが、また周りの人に「今日退院ですから」と話している。
顔なじみの看護師に「喜多さんって、今日退院なんですか?」と聞くと「いえいえ。
退院の具体的な見通しは立ってませんよ」という。
入院し、主治医の診察を受けて経過を見ながら、という他の患者と同じプロセスを経て
退院の目処をつける… はずが、喜多さんのなかではすぐに退院、今日にでも退院になっているらしい。
喜多さんは年齢はそんなに行っていないが、認知症に似た印象を受けた。(正式な病名は私も知らない)認知症の人が老人ホームに入ると、帰宅願望を強く持ち、実際に帰ろうとするという。そのたびにホームの職員が気をそらしたり、慰めたりしてその場をやり過ごすそうだが、喜多さんもまさにそんな状況であった。
看護師は喜多さんが今日明日退院する患者でない事を知っているから、喜多さんが「退院する」「帰る」というたびに「先生とお話してから」「おうちの人に連絡を取ってから」とうまく受け流していた。
ただ、日中はともかく夜中にナースコールを何度も鳴らし、荷物をまとめ始めるのは同室の人が眠れなくて困ってしまうので、違う階の個室に移っていった。
階が変わってからは喜多さんを見かける事もなくなったので、その後どうなったのかは分からない。
(文中は全て仮名・仮称です)