患者図鑑115 お母さん3 ー心理的安全性続きー
前回からの続き。
子供は何も出来ない状態から始まって、色々自分なりに挑戦したり体験する事で
世界を拡げ学んでいく。それには背景に母親との関係性からなる「心理的安全性」
があるからだそうだ。
お母さんべったりの時期を経て、段々一人であちこち歩き、あれこれ触ったり見たりする。それはお母さんがちゃんと後ろで自分を見ていてくれるという安心感があってこそ。それが初めての心理的安全性で、極めて子供の成長の上で貴重なのは言うまでもない。冒険しても、失敗しても大丈夫な環境。
やはり母親(もしくは母親的役割を果たす人間)の存在はとても重要なのだと改めて思わされた。
B病院に入院している患者の中には、前書いたように母親への強い憎悪に満ちた人もいた。
しかし、上記の検見川さんが母親を激しく憎んでいたのはそれだけ母親に期待していたからではないだろうか。どうでもいい人間が、自分に対して冷たい態度を取ろうが大してこたえない。自分も母親を愛していて、母親からも愛されたかったのにそれが果たされなかったので失望も大きく、恨みに変わって行ったのではないだろうか。
石塚さんは、「お母さん」とつぶやけるだけ、検見川さんとは違って母親とは良い関係が築けていたのだろう。彼女の年齢を考えるとお母さんを連発するのが少し奇異に思えたが。
しかし、段々と話を聞いて行くと、石塚さんの「お母さん」は存命ではあるが、もうかつてのお母さんではないのだった。認知症を発症して施設に入って、もう石塚さんの顔も分からないのだと言う。だから石塚さんの見舞いにも来れないし、手紙のやり取りや電話も出来ない。
石塚さんがつぶやく「お母さん」はもう過去の物なのだ。でもそれでも大切な思い出で、現在の石塚さんの拠り所であるには違いがないようだった。
(文中は全て仮名・仮称です)